レバノンの青い空の下、カラシニコフのリズムに乗って街は踊る
2023年9月17日4度目のレバノン滞在がはじまった。ところが3週間過ぎたところで10月7日。ガザでハマスが突然の突撃を始めるやいなやのイスラエルの爆撃。敵国レバノンの人々のショックから数時間もたたないでガザの市民の上に爆弾は落とされた。日を追うごとに悲惨になる状況。その様子を8日間見ていたのだが結局10月15日に予定を繰り上げパリに戻った。これはその間に起こったこと感じた事をつらつらと書き、描いたものだ。今回の残酷を極めるガザ地区でのイスラエル攻撃には関係ないことも書いてあります。私は政治の専門家ではないのでレバノンで感じたこと見聞きしたことだけを綴りました。専門家ではないのですが報道の専門家たちによる情報は色がついていて、国の立場により伝え方が違います。だから素人の旅日記のようなものでもその場に居合わせた。ということで一つの真実を伝えることができると思うのです。
今回の滞在では私と彫刻家の仲間スヘルの作品の展覧会が大きな会場で催されるはずだった。サイダというイスラエル国境から遠くない街で。
10月7日に起きたハマスによる軍事行動から始まったイスラエル軍のパレスチナ絶滅作戦が明らかになるにつれてレバノンの人たちの反感は日毎に膨らみ本日18日は各地で反米、反イスラエルのデモや集会が催されている。10月21日から始まるはずだったわたしの展覧会も当然延期か中止になっていただろう。しかしその前に私達は展覧会を蹴飛ばしたのだ。
会場に指定されていた18世紀のハマーム(オスマン帝国時代のスチームバス)のもち主のカップル(夫はビジメスマン、妻は小学校の校長)はここを文化発信の基地にしたい。遠い国日本のアーチストと地元レバノンの作家を迎えることで素晴らしいスタートがきれる。と熱い口調で言われ、設営費用とワークショップや街で繰り広げられるイベントの費用は向こうもち。ということで1年前から決まっていた。ちなみに2年前にも話を持ちかけられてその時は私は風呂場が会場なので力強い裸んぼうの女性達の絵のシリーズを描いてきたら直前に拒否されたのだ。この街はイスラム教シーア派が大多数の人口を占めるため、作品の写真を事前に送ったのだが何も返事がないのでそれで良いのかと思い描き溜めた絵を抱えてやってきた。ハマムの持ち主カップルにサイダの海辺の素敵なレストランでご馳走になって、よもやま話の後、デザートにうつる頃になって急にモジモジと彼らは言葉を濁して、裸体に布を巻きつけてくれないか、と言い始めた。テーマ自体が裸体とパワーなのでそれはできません。と言ったら、いや宗教的な理由でこれは子供たちに見せられないからとか、(私の描く裸体はこのマガジンの妄想芸術劇場と違って変態性欲を表すものではない)妻の仕事上、父兄に対して困ったことになるとか、ムニュムニュと言われ結局断られた。そこでスヘルが首都ベイルートで展覧会場を急遽見つけてくれたのだが、そのベイルートの展覧会に結構よい批評がでて(すごく悪い批評もでた。美しくもない裸体を描くなんて信じられない。という?な批評だった)昨年の年末、彼らはまた話を持ってきた。今回は書道など日本的な?絵を描いてくれるかという要望だった。そして先ほどあげた諸費用は彼らが持つ。という話なので、一年かけて書道と絵をマッチさせた自己流文人画をたくさん描いてきた。レバノンに到着したもの彼らは忙しいとかいう理由でなかなか会えなくてやっと会えたら今度はなんと設営費は払うけれどイベントやワークショップのお金はありません。当てにしていたフランス政府からの援助金が設営日の分だけだったので。という理屈。つまり最初から彼らの懐からは何も払う気がなかったのだ。「少ない予算内でなんとかやりましょうね」、とニコニコ笑って言われた。我々はあっけに取られ無言で帰ってきたのだが、夜になって、私は、「我々は罠にはめられたんだ。立派な場所で展覧会をひらいてやる、という餌に釣られて来たバカなアーチストは地腹を切っても良い展覧会を(自尊心に賭けても)やるんだろう。という向こうの読みにハマろうとしている。第一最初から騙す気で我々といえば信じちゃって場所に合わせて作品を作ったのに、直前で裏切るなんて許せない。」と怒りをぶちまけた。スヘルはその晩は「もうその話を聞きたくない。地腹を切っても俺はやる。」と言っていたのだが、翌日になって。ポツンと。「蹴飛ばしちゃおうか。」と言ったので私もオッケー、あんな奴らとやりたくない。ということになったのだ。なぜなら街の人々に文化をもたらすというのがハマムオーナーのいっていた目的で、(実は違っていたのだが)西洋の文化とかけ離れているこの町の大人や子供と一緒に何か楽しい事をする。というのが私達がやる気になった理由だったからである。
われわれ二人のアーチストはすでに長い人生を歩いてきてるアウトサイダーアーチストなので、作品を高く売ろうとか有名になろうとか、そういうつまんない野望は元々無くって新しい人たちと『楽しい事をする』ためだけに展覧会があると思っている。レバノンにはフェニキアからローマ時代までの文化遺産を展示する国立博物館があるだけでローマ以降1500年ばかり、現在に至るまでの美術を見せる場所がない。公園もプールもサッカー場も地域の文化センターもない、学校は義務教育ではなくて文盲の人がたくさんいる。多くの人が宗教指導者の言う事をおとなしい生徒のように従って生きている。つまりだ、彼らはピカソもデュシャンもカンジンスキーも見たことがない。別世界の人たちなのだ。これはエキサイティングなことではないか。西洋文化に汚されていない目で初めて触れる彫刻と絵画が我々の作品になるのだ。アートの敷居を(元からそんな敷居はいらない)ぶっ飛ばして街の中で人々を巻き込んでアートを仲介に楽しく遊べたらいい。私は街の人々に似顔絵を描くよと言って新聞紙の上にじゃんじゃん絵を描いて行ったし。(到着してすぐに描き始めていた)書道にアラブ語を合わせて絵に添えた作品を現地でも描いた。スヘルは野菜売りの荷車にロール式の紙芝居で展覧会のカタログを見せて回るのを制作、ダンスカンパニーを巻き込んで子供たちとポールにリボンを巻き付ける踊りをしたり、私が書道教室をしたり、という様々な催し物を考えて、費用の見積もりも6ヶ月以上前に送り、彼らは分かったはらう。と言っていたのに土壇場になってケチになったのだ。もしかしたら最初から『地域の人々』なんてどうでもよかったのだろう。なぜならばわれわれを怒らした最後のミーティングで「どうせこの街の人は展覧会に来ないから」と言っていたからだ。最初に彼らが言っていた地域を巻き込む。。。というのは我々を引き込むためのウソだったのだ。彼らがしたかったのは遠い国、日本の芸術家がやってきた。というわけのわからないハクが欲しかっただけなのだ。75年から始まった市民戦争のおかげで旅行者もぱったり来なくなった国で、経済危機で貧しくなっていまだにイスラエルからロケットが飛んでくる国。人口500万うち150万人が難民という貧しい国で日本ブランドのアーチスト。(私は完全に日本人だからという理由だけで展覧会をやれと言われてる)をつれてきました。すごいでしょ。ということが言いたかっただけなのだ。元々文化もアートもやる気はないのだあの人たちは、あるいは文化は努力なしで手に入ると誤解しているのだ。いずれにしろ約束を破る人たちとは組めない。
そんなわけですっかり暇になってしまったレバノン滞在だったが街の人々の似顔絵描きが思いの外楽しくて私は街にでて人をガン見してはスヘルのアトリエの一角を占領して新聞紙に描き続けた。「でもさー。このまま引き下がるの悔しいわー。」とふと思い、せっかく作品があるんだからゲリラ展覧会プラスパーティーをやっちゃうことにした。その詳細は次回お話しします。
ベールを被った女性達を観察しているうちにふと、これって宗教画に出てくるマリア様と同じファッションだ。と気がついた。中世やルネッサンスの巨匠達が追い求めたマリア様の慈愛と悲しみの籠った崇高なお姿。あの絵の中の聖母と同じベールで同じ長いもさっとした服を着ている。街を出て田舎に行くと砂漠に近いような薄茶色の岩と灌木が地平線まで連なるまさに聖書の風景。実際キリストはレバノンの各地に来ている。彼らは信じられないことに2000年もの間同じ服装のまま。男性のファッションはTーシャツに短パンなのに。まるで日本でいえば男性はスーツ着て女性は日本髪に着物のままで今の社会にいる感覚でしょうか。「お母さんもそうだったし、私もそのカッコがいいの。」という娘さんもいれば、「いや私は違う、」と言って家族中の妨害にもめげずベールをとって実家から出ていく娘もいる。自由だけが良いわけではないからね。日本人の女だからわかる。自由の対価は高いって。西洋人はイスラムを毛嫌いするけれど私は少し前の日本社会みたいでアラブ世界に親しみを感じる。昔の日本の村社会、相互に干渉し合う社会は好きではないけれどそれが西洋が大騒ぎするほど女性蔑視でもないし人権侵害な訳でもない。と思ったりする。私は昭和世代なので差別に対して甘いのだろうか。女に色々押し付けられて文句も言えない状態に対して諦めの気持ちがあるのかもしれない。今の若い女性だったら大騒ぎになるのかも。とにかく私はベールの女性たちを観察していて特に迫害されているとは思えない。レバノンの場合女性は皆働いているし大学にも行くしどんな職業にもつける。ただやはりシーア派では娘は息子の半分しか遺産をもらえないそうだ。離婚するのはとても簡単だが出ていくのは女性で子供は置いていかなければならないらしい。それは流石にきつい。と思うとやはり女性に過酷な社会である。
中東は複雑で理解できない。と言うのは本当だ。誰と誰が味方で敵かがいくら聞いてもはっきりしない。それは敵になったり味方になったり自由に変わるからだ。彼等は皆どこかの村出身だ。想像して欲しい、戦いと言わず何かのグループを作る場合、出身地の村同士でまとまる時もあれば同じ年齢で、と言う時もあるし親族で、と言う時、また同じスポーツクラブに所属、などなどあるわけでそう言う色々な縛りのグループ同士が武器を持って戦うと言うのが大雑把に言えば中東の紛争だ。その上同じ宗教という最もきつい縛りもある。だからあるときは宗派が違うという理由で争い、ある時は宗派が違うけれど同じ理由があって同盟を結ぶこともある。今紛争中のハマスはイスラエルが難民達のガス抜きのために作ったグループだ。ハマスはスンニ派だが資金を送っているのはシーア派が多数のイランだ。またイランはレバノンにあるヘスボラという武装グループ、これはシーアにも援助をしている。そしてハマスとヘスボラは宗教は違うがともに同じ目的で戦っている。そして植民地時代からの紛争続きで男たちは普通に武器を持っている、簡単に店でも買える。だからすぐにぶっ放すことになる。週末などよくベイルートでもパンパンパンと銃声が聞こえる。レバノンの人は、これはカラシニコフの音だからシーアだ。ヘスボラだとか。この音はMP5だから軍隊だとか音でわかる。中東では結婚式か誰か戦士が刑務所からでた祝いとかで空砲を鳴らす習慣がある。これも風物詩というか、中東の街の音。誰もビビったりはしない。多分麻痺しているのだろう。街を出ると美しい山並みが広がっている、しかし散策しようとすると銃声の中を歩くのを覚悟しないといけない。山道には薬莢が散りばめられている。とにかく銃を撃つのが好きな男性が多いのだ。鴨が渡って行く時はもちろん、雀だろうがなんだろうが食べようが食べまいかとにかく動く動物なら全て撃つ。ただの旅人である私が異国の人に対して安易は批判は控えたいがマジこういうのを楽しむ奴の気が知れない。絵を描いた方が楽しいよ。そのほうがモテるし。
さて10月7日の土曜日あのハマスの攻撃が起こった時我々はパレスチナ人の女性で教育機関で働いているアマチュアウード奏者の別荘にお昼に呼ばれていた。海に向かって山並が霧に煙る大変美しいムテインという村だ。絶景のテラスで昼ごはんの準備をみんなでしていたら激しいマシンガンの音が立て続けに起こった。なんだろう、これは結婚式の音じゃないね。このガンの音は知らないな、中東出身者達は話し合っていたがすぐ忘れて飲んだり食べたり。そっちの方が大事と言わんばかり。夜になってニュースを見てみたらハマス侵攻を祝った銃声だったとわかった。それ以来毎日レバノンの人たちは一日中ニュースをチェックすることになった。パスポートが切れている人はすぐに申請をして、とにかく何かあったら瞬時に国を離れることができるようにマンションを片付けスーツケースを用意した。レバノンの国家がイスラエルを攻撃しないのは分かり切っている。しかし今まで2回レバノンはイスラエルに占領され街は爆撃された経験がある。多くの犠牲者がでた。それ以後、今でもハスボラのいる地域を狙って日常的にロケットが打ち込まれている。つまりすでに侵攻を受け続けている。国境付近の土地を少しづつ奪い取り、日常的にレバノン上空に戦闘機を低空飛行させ(音で威嚇)ドローンを飛ばしてきている。つまりニュースではもう取り上げないほど日常的にレバノンを蝕んでいる。そしてヘスボラは少ない武器で反撃している。それがこの何十年もの日常なのだ。ところが今度の事件でアメリカはヘスボラに対しイスラエルにを攻撃したらレバノンを攻撃する。と脅してきた。え、自国を守っているだけなんですけど。反撃さえもしなかったらイスラエルままたもやレバノンに侵攻してパレスチナだけじゃなくてレバノンも奪ってしまうだろう。それでも日本、アメリカ、フランス、英国はイスラエルの味方をするのだろう。レバノンの人たちの置かれた状態は同情にあまりまる。もう戦争はいやなのにお隣のイスラエルはやりたい放題。お願いだから放ってておいて。と言いたいが、怖いお隣さんはヘスボラを潰したら許してやろう。と言う。けれどヘスボラはすでにレバノンの政党の一つになってしまったので潰すことができない。それをよく知っている上での難題を吹っかけてきている。世界の世論はイスラエル一色に染まった。レバノンのキリスト教右翼がいくら嫌がってもパレスチナとレバノンは運命共同体と言える。戦闘の始まった7日土曜日、多くの外国人が国を出て行った。さて私はどうしようか?
沈没寸前の船からネズミが逃げるようにこの人達を置いてさっさと平和なヨーロッパにもどる、と思うと胸がいたんだ。この国にはパスポートも取れない人たちはたくさんいるんだよ。と避難がましい発言をするスヘル。しかし自国でもない国で何ヶ月も閉じ込められる危険を犯したくないので10日間様子を見た上、黒幕イランの大臣がアラブ諸国を緊急訪問、レバノンにやってきた日の翌朝に出発した。そこでヘスボラ代表と話し合った内容によっては事態は急変するからである。
この世に正義はない。という悲しい事実をまたもや知らせてくれた今回の紛争。終息することを祈りつつガザの病院に義援金を送った。
アツコ バルー
続編
レバノンの青い空の下 カラシニコフのリズムに乗って街は踊る
前回お話ししたのは私と彫刻の友人スヘルがせっかく1年かけて用意した二人展を直前でキャンセルしたという話だった。主催者が約束を平気で破ったことに対する抗議行動として展覧会を拒否したのだ。しかしせっかく描き溜めてきた作品を見せないのはなんとも悔しい。かといって自腹で会場を借りるというのも納得が行かない。そこで私は名案を思い付いた。スヘルのアトリエはベイルートの中心から遠くないし大きさも200平米ほどある。そこでオープンスタジオをやっちまおう。と考えたのだ。しかし今のところ彼が50年間のイギリスで作り溜めた作品が木箱に入って3年前に国に戻った時に運送会社が置いて行ったままである。その上に埃がたまりかなりホラーな状態。少しだけ残された空間ではセメントの袋やら拾ってきた木材やらで足の踏み場もない。かろうじて私が絵を描く台だけ作ってもらっていた。この際に大掃除したらどうか、一石二鳥である。私は早速スヘルに提案したのだが、彼は「アトリエは仕事の場所で見せる場所では無い。」という。それは詭弁であるぞ。ロンドンで彼のアトリエは毎月、共和国イベントと称してDJセットを入れて彼が腕を振るったレバノン料理をならべ朝まで大騒ぎのできる楽しい場だったのだ。そこにはもちろん彼のウイットたっぷりの彫刻が天井にも壁にも所狭しと置いてあり彼の創作の世界にお邪魔する感じがすごくよかったのだ。私がそれは変な理屈だ。というと。パーティに来た人が偶然作品を見るのはいいが、作品を見てくれと言って人を呼ぶのは嫌だと言う。そのどこがちがう?お見合いはいやだけど人が家に来て偶然娘さんがいた、と言う建て付けならばお見合いしてもいいわ。と言うようなものである。面倒臭い人である。そこで私は言い方を変えた。私個人、あつこがパーティーをしたくてしょうがないので場所を貸してくれ。と。すると、それならいいけどアトリエは片付けないでくれと、意味不明な条件をつけられた。OK、と言って私は平気で裏切ってやった。夏から滞在していた日本人の建築家、のぞみさんに共犯者になってもらって彼女と私は早速、アトリエで作業してくるわ。と言って二人で朝から出動。若くて力強い彼女は50キロも60キロもある木箱をエイエイと押したり引っ張ったりしてどんどん一箇所に寄せて小さい木箱は積み上げて3時間程でかっこいいウエアハウスの展示場空間を作ることに成功した。昼頃にスヘルがふらりとアトリエに来た時にはすでに変身後だった。入ってきた彼は小さく「アッ」と息を漏らして2-3秒無言だったがそれから猛然と手伝いはじめた。のぞみさんの夫も協力してくれて1日でかなり素敵なパーティーができる空間になってきた。スヘルは夕方にはエンジン全開でベイルート中の友人や美術関係者を招待すると言う、私はその場で新聞紙にポスターを描いた。すでにあつこのパーティーではなく本来の企みであったオープンスタジオと書いてもスヘルは反論はしなかった。翌朝はロンドンからスヘルの40年来の友人、彫刻家夫妻もやってきた。彼等は本来は我々の二人展のオープニングに駆けつけてくれたのだが二人展はそんなわけでキャンセル。空港から真っ直ぐスタジオに来るなり腕まくり。彫刻家のセンスと筋肉でサクサクとラフでイケてる設営空間を作っていった。婦人もロンドンから来た町着のまま本来の床の色がやっと見えるまで何回も雑巾掛けをしてくれた。なんだかみんなで汗かいて何かを作るのってこんなに楽しかったっけ。塵だらけの場所に息を吹き込むと魔法のようにものづくりがしたくてウズウズするような場所になった。スヘルは本来、人を巻き込む魅力があってみんながハッピーになれる空気を作るのがうまいのだがなぜか消極的になっていたところを背中をドンと押された感じで目覚めてくれた。私のアイデアもちょっと褒められて嬉しかった。
オープンスタジオのパーティにはどうしてもロンドンからの友人達がいるうちにやりたかったので急だが3日後の10月8日の日曜日にした。わざわざやってきてくれた彼らはスヘルを慕いながら環境のまったく違うレバノンで彼がちゃんとやってるか少し心配をしていたのだった。ロンドンにいた時の彼はいわば一身にレバノンを背負っていた。楽天的で人懐こく大盤振るい、また中東の複雑さや西欧支配に対する抵抗など全てを自ら表現していた。彼のアートもまさに人柄と同じ。それが魅力であった。しかし国に帰った今、彼は何を表現するのか?海外で暮らしている日本人としてわかるのだが。海外で私はまず日本人で人は私に日本を見る。日本に暮らすと反対に人は私に外国帰りを見る。そのどちらが本人にとって快適なのか。どっちにしても自分は自分で関係ないのだが他人の見る目は変わるので自分の中でちょっとした微調整が必要になるのだ。ロンドンの友人たちもそれぞれイギリス人ではない外国人でつまり母国との関係を常にバランスを取っている人たちなのでその辺りを気にしていてくれるのだと思う。
余談だが、パーティーの日の朝、車で酒類を買い出しに行った。この国の税金はどうなっているのか、国産のウイスキーやジンはひと瓶3ドルで買える。ワインは4ドルくらい。店では売っていないが禁制のマリワナも1キロ単位で買うらしい、ちなみに1キロ50ドルだそうだ。一応国の法律として禁止なのだが2000年の昔からこの地では栽培していて万病の薬として(ちなみに私の血糖値が高いと言う話をしたらマリワナを温めないでそのまま毎朝に飲めば血糖値が下がると言われた。温めないとトリップはしないそうだ)も家庭の常備薬だし、食後の一服はどこのレストランや家庭でもみなさん楽しんでいるのは匂いでわかる。
パーティの前日にハマスのイスラエル攻撃が始まった。レバノンの人たちは戦争には慣れている、といえども多くの人は緊急に会社に呼び出され、みんなかなり動揺していたのでパーティーにくるはずの人たちはあまり来なかった。しかしそれでも四十人くらいは来てくれてウードややレク、篠笛を持参の人たち、昨年の私の展覧会にきたベリーダンサーも2名も踊ってくれた。そしてもちろん、皆さんスヘルと私の作品もゆっくり見ていってくれた。
ベリーダンサーのナイーマさんは盛んに踊った後(床拭いておいてよかったね、と彫刻家婦人と耳打ち)、私達に踊りを教えてくれた。彼女曰く、べルーダンスは彼女なりのレジスタンスなのだという。それはアラブの女性たちがサルサなど外国のダンスに飛びついてベリーダンスを下品なものとして踊らないことに対するレジスタンスだし、ベリーダンスは大変古い歴史があり、古代のダンスが全てそうであるように女性の腰を振ることによって見る人を幸せな気分にさせるものであること、女性の社会進出は素晴らしいのだが、女性だけができて人を幸せにできるのはベリーダンスなのだ。世界中の女性が踊れば男たちは戦いを止める。これは差別ではない。女性の特性を直視して欲しい。と言う彼女はアクティビストなのであった。
「一本の足は軸足で大地に繋がって、もうひとつの足は軽く曲げて、腰から上は天に向かって、無理に振ろうとしないで足の裏で大地を揉んでください。細かく揉めばこまかく腰が震えるし大きくもめば腰が大きく揺らせます。」と、ナイーマに言われてみんなで試したが太古の女神になるのはすぐには難しい。大地を踏むと言うのは聞いたことがあるが大地を揉むというのは新鮮なイメージだと思った。そこで私が思ったのはアメノウズメのミコトだ。アメノウズメの踊ったダンスはベリーダンスに違いない。裸足で大地をモミモミして腰を振るって天照大神を呼び戻したあの女神だ。確かにこの壊れた世界にはベリーダンスが必要かもしれない。というか、もうそのくらいしかないんじゃないかと思わせる世界の壊れ方じゃあないか。開け放したドアから秋の夜の美味しい空気が流れてくる。アートと音楽の宴。折しも陸続きのガザではハマス攻撃に対するイスラエルの報復が始まっていた。甘くて苦いパーティーは夜明けまで続いた。これぞレバノンのスイングそのもの。「ミサイルが降ろうがパーティーは続けないといいけないのさ!」というすてっぱちな人生観でしぶとく生き残るアラブの魂が私の胸に沁みた。この夜のことはずっと忘れないだろう。
シリアの人々のこと
自動車しか交通手段がない国(戦争で鉄道が破壊されて回復の希望はない)で渋滞する交差点には小さい子供たちがティッシュペーパーやらバラの造花を売っている。排気ガスの充満する炎天下に7歳くらいの子供たちが埃にまみれている。シリア人は金髪やブルー、グリーンの美しい目の人がたくさんいる。まるで子供服のモデルにしたらさぞかし。と思わせる天使のように美しい子たちが学校にも行けず、文盲のままで路上で大人になっていくのだ。戦争が終わったのだからもう国に帰りなさい、と昨年からレバノン政府はバスを出して帰国を促しているが、シリアの難民の人たちは帰って行かない。それに対してレバノンの右翼系の人たちは出ていけデモをしたり、道端でシリア人を襲ったりと言う酷い事件が後を経たない。経済破綻や失業をシリア人のせいだと決めつけてイジメを焚きつける連中がいるのだ。難民指定された人は一人あたま子どもを含めて月25ドル国連からもらえる。子供5名まで有効だから7人家族だと25x7=175ドル貰える。これはレバノン人の警察官の給料の2倍以上である。そこで嫉妬もある。難民指定されていないシリア人もたくさんいてそう言う家族は乞食をするしかない。就業はほんの一部の職種をのぞいて認められていないからだ。しかしそれでもやっぱり彼らはシリアに帰らない。戻れないからだ。家があっても外国の傭兵が攻め入った時に役場の書類は売りに出されたので権利書は勝手に書き換えられて既に持ち主は変わっている。一部の街はトルコに占領されて今でもトルコのものになっているのでもう帰ることはできない。田舎に行く道路には武装した傭兵がまだいて身包み剥がれされて殺される。男性は国境で捕まり兵役に出される。兵役は3年だが延長されることもよくある。兵役といっても兵士として前線に送り出される。つまりとっても戻れる環境ではないのだ。旅行者でもヴィザさえ取れば行けるのだがダークツーリズムはどんなものかと。首都ダマスカスは破壊されていないので戦争中もずっと機能してきた。名物の中東一美味しいお菓子も健在だそうだ。しかしかつては教育も医療も無料。まともな生活をしてきた彼らの子供がこうやって物売をしている姿を見ると物見遊山にダマスカスまで行く気にはなれない。
デコトラ
パキスタンやアフガニスタンみたいに派手ではないがレバノンのデコトラはどちらかというと品よくまとまってそれなりに風情がある。今回の旅で出会った写真家で民族学者の女性、ウーダ(Houda Kassatly)さんはなんとデコトラの本を出版している。調査したトラック約2500台。400ページにわたる写真と文章が圧巻の本である。1冊しか残っていないと言うことでお借りして本から何枚か写真を撮ったので見てほしい。元祖のデコトラはもと看板職人だった人がトラックの運転手になって車体に絵を描いたらどんどん広まっていったとか。トラックの後ろに書いてある文章もとても大事だ。特にアラブの書道は普通の人はできないので専門家が達筆で書く。内容が日本にもよくある、交通安全系、パパ無事に帰ってきてね。から全能の神を讃えるもの、あるいは諺、恋人を讃えるもの。中には義母の悪口なんて言う個人的なものもある。今回私は文人画に日本語とアラブ語を書いたので少しは勉強した。何しろインドヨーロピアンではなくて何語にも似ていない。アルファベットからして子音だけで母音はAしか無い。どうやってう、や、い、の発音をするかというと点や点々、そしてwを横にしたようなアクセントでわかるのだという。同じ発音でも書き方が違う言葉がたくさん、(それは日本語も同じ)書道は日本や中国と同じで筆使いがとても大事で「跳ね」の美しさは大事だが、我々と違って掠れとかボカシはありえない。なにしろ全能の神を持っている一神教の人たちなので不完全は大嫌いなのだと思う。全ては神に近づくように完全を目ざしているように見える。現代書道のような自由さよりもより美しいデザインの書体を目指しているのが特徴だ。
今起きていること
10月7日から今日で3週間が経った。今、思うとはっきりしてきたことがある。あの日で第二次大戦後から始まった「より良い社会へ」と言う幻想が終わったのだと。世界は再び暴走し始めた。私たちが生まれ育った戦後の価値感はあっけなく否定され、今や力のあるものが白を黒と言い、誰もそれに反論しない。フランスではあっという間に民主主義の柱である表現の自由は失われ市民のデモは禁止。パレスチナの国旗を持っていると135ユーロの罰金を課せられる。フランス人が最も誇りにしていた共和国の理想はあっという間に吹き飛んで警官は平和的にデモをしている市民を取り囲みゴム弾を発砲する。心ある市民は口を塞がれ多くの人々はSNSから垂れ流される歪曲されたニュースを批判することもなく信じて疑わない。警察と軍隊はマシンガンを持って駅や市内をうろつく。その数たるやまるでレバノンよりずっと多い、中東の国よりもきな臭い、実に嫌な雰囲気を醸し出してるではないか。武器輸出で世界3位、紛争があると儲かるから紛争を作り出すのがフランスだ。おしゃれなフランスという仮面の下にはドス黒い死の商人の顔がある。今までは民主主義のお手本を演じてなんとか表面を創ってきたが今や何も隠すことはない、なぜなら他の国もみんな右翼化しているからもう恥じることなくファシズムを表明できてしまう。ファシストのお仲間であるイスラエルの現政権を無条件でサポート。ガザの200万人をほぼ絶滅させた後土地を奪い、イスラエル国家からパレスチナ人を一掃するつもりである。日本もアメリカももちろん大賛成である。元々はイギリスとフランスで中東を分け合い、挙句は住民への相談もなくイスラエルにくれてやった。植民地という名前の暴力、窃盗は裁かれることはない。そりゃあ便利だ。国をとっちまえばいいのか。と真似をしてコテンパにやられたのは日本だけで、アメリカ、英国、フランス、オランダ、ベルギー、ドイツ、スペイン、ポルトガルの植民地政策は裁かれたことがない。イスラエルの右翼はイギリスが作ったモンスターである。イツハク・ラビンのような平和主義者は暗殺され、今の首相の率いる右翼はかつても南アフリカと同じアパルトヘイト政策を推し進めてきた。西欧の国はどんなにパレスチナの人に非道なことをしてもロシアにしたような経済制裁は加えてこなかった、そして今の暴走がある。
日本は相変わらずの鈍感さで外国で起きていることに多くの人は無関心であるがこれは日本にもすごく関係があってすでに右翼化している日本だって国がファシズムに走るのは一瞬のことなのだ。着々と戦争の準備をしている日本で危機感を持っているのは沖縄の人だけのようだが、あの手強いフランス人でさえあっといまに絡み取られたように私達の自由な考えは最も簡単に摘み取られてしまう。今までよりずっと慎重に友人と敵とを見分け情報を選び取り行動することを強いられて来るだろう。それに困ったことには自分の身を守るか自分の信念を守るか選ばなくてはならない時が来るだろう。誰も無傷ではいられなくなる。ホラーショウが始まる。もう始まっている。
10月30日
アツコ・バルー (画家、サラヴァレーベル代表。元ギャラリー店主)
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