BORO
The honourable beauty of poverty in Japan

What did people wear in the past? While clothes and other belongings of the nobility and wealthy merchants can be seen in museums, those of the common people hardly ever are. Even though common people, poor people were the overwhelming majority. But many of them couldn’t write, and as we know, history is made by the powerful, by those who can and did write.

Moreover, all of their clothes have been made by women. That might be another reason why they are ignored? And, in many countries, clothes are burned or buried together with a person once he or she had died. In Japan’s poor rural areas, however, they weren’t. They were too valuable and therefore put aside. Even those who were able to acquire some wealth, didn’t throw away their patched clothing, the clothes their ancestors already cherished so much. That’s what „Boro” is.

昔の人々がどんな衣服を着ていたか、実はあまり知られていない。貴族や裕福な商人たちの持ち物は残っていても貧しい庶民の物はほとんど残っていない。貧しい者たちの方が圧倒的な大多数を占めるのに、である。そこには多数決の法則などなくて、歴史はひたすら支配者によって書かれ、文字を持たなかった人々の生きた証は残らないことになっている。*

しかもこれらの衣服は全て女性によって作られてきた。メインストリームから無視される所以である。その上、多くの国で衣服は持ち主が亡くなった時に一緒に埋めるか焼いてしまう習慣があったという。しかし日本の庶民の生活では衣服はあまりに貴重だったためか、焼かれないでとっておかれた。豊かになってそれらの衣服を着ないでもよくなっても祖先の大事にしてきたつぎはぎの布は捨てきれないでとっておいた、それがいわゆるボロである。

現存するボロは江戸時代の後期から昭和の中頃までに作られたという。。東北では綿は栽培されなかったから麻から繊維をとって布を各自で織った。一家の布を作るのは女の仕事で、麻の種を蒔き収穫し、農閑期に糸を紡ぎ機織りをした。布は大変貴重で貧しい家では一人に一枚の着物しかなかったと言う。まさに着たきり雀。だから大切に布が弱くなると破ける前に補強した。大きな布は到底手に入らないが西から来る北前船で古着の小布ばかり袋詰めにしたものを買い求め良い部分だけをとって工夫してつぎに当てた。貧しいなりに色や配置を考えデザインしてあるのが見受けられる。いや「貧しい」と思うのは今の我々から見た価値観で、当時はほんの一部の人をのぞけば普通の状態で、そこに憂鬱や悲惨さは微塵も感じられない。何故なら布の配置は行き当たりばったりではなく、試行錯誤の跡があり、縫い目は細かく規則的で几帳面。ポジティブなエネルギーがこもっている。意外と女たちは楽しそうにいろり端に集まっておしゃべりしながら創意工夫したに違いないと思わせる余裕がある。少ない資源や収入に重ねて女というさらに社会で発言できなかった存在であった女性たちが貧しさを逆手にとって豊かさを作っていた。という力強さに胸を突かれる。

ボロは日本の美的感覚の最もユニークで重要な精神を表している。質素、侘びと寂び。不規則さを好み、アシンメトリーを好む。滅びと再生の繰り返し。ものに心を宿らせること。そして清貧の美。

茶道に代表されるように、ちっぽけな薄暗い小屋で、なんでもない雑草を飾り、土でひねった茶碗(しかも割れた茶碗を愛おしんで金つぎしたり)で客をもてなす。というのが粋の頂点という変わったセンス。咲き誇る花ではなくて、散る桜の花に美を感じる。世界中の文明の豪奢を競う美の中でなんとも特異な日本の美的感覚のすべてがこの無名の農村の女性たちによって端的に表わされているのは驚くべきことであるし当然とも言える。

人によってはボロに空爆後の日本の都市を、原爆を、爆風でちぎられた衣服を見る。しかし目を近づけると小さくて几帳面な縫い目。滅びを受け入れつつも慎ましく身仕舞する健気さを発見して希望を見出す。そこでまた日本の文化を表すキーワード「滅びと再生」が浮かび上がってくる。日本は地震や津波、台風のような天才に絶えず脅かされている、北ヨーロッパに暮らすとあまりに天災がないのでかえって驚く。この大陸で千年以上続く石の建築が溢れているのはわかるし、永遠への思いが強いのも理解できる。ところが日本では地震の心配のため軽い木造で故に火事のリスクあり、ものは儚く滅びるから精神だけは永続するように願ってきた。些細な日常の道具にさえ心を込めて、日常の美を庶民の生活にも取り入れてきた。

人によってはボロに現代アートを超える芸術性を見る。アンセルム・キーファーが訴え続ける破壊の苦悩を軽く飛び越えてボロは上気したような様々な人の生き方、悲しさ、強さを感じさせてくれる。そして今や世界のファッションデザイナーがボロに注目している。グランジファッションやダメージジーンズの流行を受けてか、キャピタル、コムデギャルソン、ルイ ヴィトン、ポータークラシック、などがボロからインスピレーションを受けてデザインしている。

*柳田國男 「木綿以前の事」衣服から昔の庶民の暮らしを考察した名著。